中国怪奇小説集に思うこと
夢で美人捕まえて暮らして、覚めたら魂が蟻の世界で働いていたとか
話していた後ろで女が白鷺になり飛び立ったとか
宿に泊まったあと振り返ると墓とか
女と話した後振り返ると塚があるとか
そういう現とチャンネルが違うものが交錯する話好き。
中国怪奇小説と銘打たれた短編の、不思議な淡白さは
アメリカンジョークの違和感と同じなのではないかと思った。
太った婦人がアヒルを連れて酒場に入ってきた。
「ダメじゃないか、こんな所にブタなんか連れてきたら」
「何よ、この酔っ払い。どうしてこれがブタに見えるのさ」
「今、俺はアヒルに話しかけたんだ」
*****
にやっとした。
でも、なんか笑いのツボはいつもと違うところだなーと思う。
おしどりが夫を撃たれ、猟師に向かって詠んだ 次の和歌も読んでもらいたい。
日暮るれば
さそいしものを
赤沼の
真菰がくれの
ひとり寝ぞ憂き
たそがれ時になると私は夫を誘って家路についたものです。
でも、今では、赤沼の藺草の茂みのかげで、ひとりで休むしかありません
>新方丈記
これをラフカディオ・ハーンは新潮文庫「おしどり」においてこう表記している。
日暮るれば
さそいしものを
赤沼の
真菰がくれの
ひとり寝ぞ憂き!
エクスクラメーションマークいらない!わかってねーな小泉八雲!
多分彼の感覚では、おしどりの哀しみを表すには最後に「!」で締めるのが良いと思ったんだろう。
言語体系の違いによる表現の変化。
うまくはまらないしまりの悪さとかを感じてほしい。
最後に中国の「一つの杏」という話。
男は屋敷の女に10年後にまた来るといい、門を出て数十歩、振り返れば跡形なく消えて、そこには大きい塚が横たわっているのであった。
月日が流れ塚は河川工事の現場になっていた。
そして以下の締めへ続く。
「ことしは約束の十年目に相当する。どうしたらよかろうか」
聴く者も答うるところを知らなかった。工事がとどこおりなく終って、ある日、崔は自分の園中で杏(あんず)の実を食っている時、俄かに思い出したように言った。
「奥さん。もし私を嘘つきだと思わないならば、この杏を食わせないで下さい」
彼は一つの杏を食い尽くさないうちに、たちまち倒れて死んだ。
・・・物語はこれで終わり、次の短編が始まる。
えーっ?これでオチるの?って感じるんだけど、漢詩の体で
「忽チ倒レテ死ス」
で終わってたら、あぁ死んじゃったけど不義理だとは思われてなかったんだなぁよかったなぁ・・・
とか感じ入る余裕が出来る気がする。
文章を訳せば感覚が伝わらず、感覚を訳せば外人や日本人が感じたものではなくなってしまうんだろう、という話。
走らせてる言語が違うんだから、物語の感じ方書き方は違うのは当然なんだけど、酉陽雑爼読んでて違和感に説明ついたと思ったので書いた。
出典
>アメリカンジョーク